2023年を振り返ってみた

さて今年も、もう僅か数時間で終わるわけなので、毎年恒例の振り返りをしてみようと思う(2021年頃からやってる?)

意外と覚えていないものなので、iPhoneのアルバム月別から写真と動画を見ながら、ピックアップしてみよう。

 

1月

年始は盛岡の神社でお参りいったあと、夜は彼女とイルミネーションを観にいくために牧場の高原に行ったようだ。寒くて凍てつくような思いだったけど彼女が楽しそうにしていたからそれでいいのだ。

 

2月

・真冬の川の近くにあるテントサウナを体験。死ぬほど寒いけど、テント内で薪をくべて温度を高くする楽しさ、極寒の野外と違い、テント内はじわじわと温まり汗がぼたぼたと落ちていく不思議な経験をした。野外が寒いから水風呂無しでも充分気持ちいいけど、周りが氷柱があるような極寒の川に飛び込んだのは今年の前半では一番の思い出。

・親友が職場を辞めることを報告しにわざわざ仙台からうちに来た、1万円もする高価なカニを買って鍋で茹でて酒と共に流し込むように夢中で食べた。割愛はするけど、たくさん話をして職場を去る際に夢を託されて泣いてくれた。あいつの分も俺は頑張らなくてはならない。

 

3月

トヨタのディーラーローンが5.9%と高いため、借り換えローンのためにJAバンクに移行した。色々と手続き等が面倒だがこれで一気に資産形成上は有利にはなった。

送別会に誕生日プレゼント探しに何かとお金が出ていく月だなと感じた。

 

4月

・彼女の誕生日月なので小旅行で日帰りで弘前公園の桜をみにいった。暖かいことと強風で例年よりも桜のピークが早くて少し残念だったけど、喜んでくれる彼女は本当にイイ子だなと感じた。

・異動しなかったので、同じポジションで2年目。ある意味で気合いが入って仕事をガンガンやり込んで現場にバリバリ出てたな。

 

5月

母と兄がこちらに来ると旅行計画あったけど、兄の奥さんがこのタイミングで妊娠が発覚。旅行計画は白紙に。

・10年ぶり以上の歯医者へ。。行く前の恐怖感がヤバかったのを覚えている。

案の定、虫歯があって、なんと4本も見つかった。一つはかなり奥まであるので進行させてしまうと次は抜歯の可能性があるとか、、、ともかくすべて治療ができてマジでよかった。

 

6月

研修で秋田まで行って、とてつもない大きなスギの伐採をみる。現場仕事をする分にはやりがいがあって成長も出来そうなのでいいなと思った。

瓶ウニの季節、今年も飽きるほどウニを食べまくった。

 

 

7月

福岡、熊本、佐賀旅行に行った。サウナのミシュラン獲得の予約必須の宿を半年前から押さえることができた。人生でここまで充実したサウナ体験は初めてだった。上質なホテルでゆっくりと贅沢な時間を過ごすのはお金の使い方としてよいなと思った。

認知症が進んだおばあちゃんが老人ホームに移ったときいて訪問、元気そうだけどやはり寂しそうにしていた、生きているうちにもっと会いに行かなくては、、

・毎年恒例のSUP、海にも潜った、最高の夏を感じた。

 

8月

・交際記念月。ちょうど1年目なのでフランス料理店で料理を堪能した。

宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」を鑑賞

・NISA積立投資を開始

 

9月

飛行機を使った出張で札幌へ。研修内容がハードなのでかなり試されたが経験できてよかった。

数年ぶりに初めて北海道で先輩と会えた。超忙しいスケジュールのなかも北の聖地といわれるサウナに入って今年一の整いを経験。

・同期と最後の全体研修。かなり不安と緊張(何か発表やら試されるのでは?)と感じていたがめちゃくちゃ緩くて、1種採用の同僚とも話を色々できて勉強になった。将来は海外勤務も視野に入れて頑張りたいと思った。

 

10月

初めての下北半島。車で片道4時間半。往復9時間の苦行。

大間にいって本マグロを食べたのがハイライト、あと北限のサルがそこら中にいる(笑

・盛岡のリニューアルオープンしたばかりの動物園へ。狐がかわいかった。

岩手山登山を同期で集まってした。しばらく筋肉痛で何もする気にならなかったけど本当に行けてよかった。

 

 

11月

・シカの頭を拾ってきた、ハンティングトロフィー的な物を作ることを決意。でかい鍋とバケツコンロを購入して外でぐつぐつと煮込んだら、気持ち悪いウジ虫と怪しい匂いがした、、

・仙台のサウナミシュランの施設「竜泉寺の湯」に行った。

 

12月

洞窟探検に行ってきた、日本一奥行きがある鍾乳洞探検でガイドを雇って本格的に冒険をした、ほふく前進や四つん這いにならないと通れない、泥と汗にまみれながら格闘し本気で面白かった。

・本州最東端の「とどがさき」にも翌日いってきた。

バルミューダトースタープロを1万円値引きで購入。

 

 

 

投資家になったよ

20代に様々な職種を経験して、全国各地いろんな場所に出かけ、たくさんの人と出会ったことは20代の振り返りの記事で書いた通りである。

 

 

そんな僕は、30代になり、20代はとにかく自身にお金を使う(ファッションだの、旅行だの、趣味だの)自己投資に使うフェーズだったものは、次第に変わっていき、お金が自体に働いてもらい収入を増やすいわゆる本物のマネー投資に興味を持つようになった。

つまり、あらゆる経験を一通りしてきたので、これからの未来に向けては現状の満足度を超える事は難しいと考え、一旦わかりやすく1千万程の資産形成をして更なる違うライフステージへ移行するためにお金を使っていこうと思ったわけだ。

 

目標は10年で1千万円の資産形成。

 

目標は高い方がいいし、明瞭な方がいい。

僕は10年後41歳だが、その年齢で資産が1千万円ある未来は、とても明るい未来だと思えるのだ。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

金融広報中央委員会「家計の金融行動に関する世論調査(令和3年)」によると、40代単身世帯の平均貯蓄額は818万円、40代二人以上世帯の平均貯蓄額は916万円です。 中央値40代単身世帯で92万円、40代二人以上世帯で300万円となっています。 なお、いずれも貯金だけでなく株式や投資信託、保険なども含まれた金額です。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

上記のとおり、中央値の現実は40代(40歳~49歳)はせいぜいこの程度が圧倒的多数、そもそも、金融広報中央委員会の「家計の金融行動に関する世論調査(令和4年)」によると、株式などを含めた金融資産保有額で、1,000万円以上1,500万円未満の人の割合は、一人暮らしの人で7.3%、二人世帯以上で10.8%

という上位10%以内に食い込む資産形成エリートともいえるだろう。

 

 

さらに!年代別に見てみるとこんな感じ。

■ 金融資産保有額1,000万円以上1,500万円未満の年代別割合

年代 一人暮らし 二人以上世帯
20代 1.9% 3.6%
30代 6.8% 8.7%
40代 12.0% 10.0%
50代 7.7% 11.6%
60代 9.2% 10.9%
70代 7.8% 12.7%

 

どの世代を見ても、資産1千万円あるというのは、珍しいことなのだ。

 

投資の世界では有名な計算式がある、それは

資産形成 =(収入 – 支出)+(資産 × 運用利回り)

これをひたすらに実践していけば、おのずとお金持ちになる、いたってシンプル。

 

まずは生活防衛資金(約半年間の生活費)を貯蓄➡節約術をマスター➡月ごとの収入支出を把握➡余った余剰金を貯金ではなく投資に回す➡高配当株などで配当金が増える➡生活に余裕が出る➡お金の心配をしなくなる➡心理的なファイヤー達成➡人生の選択に自由が増える➡幸福(笑)

 

さて、ここからは現実的なプランの話。

10年間で1千万円を貯めるには現金貯蓄ならば単純計算で、1年で100万円、1ヶ月で8万3000円強を貯める必要がある。

利回り3%の投資信託でやるなら7万2千円

5%なら6万5千円 7%なら5万9千円ずつを月に積立投資すれば1000万円になる計算だ。

 

 

だが普通に考えて、現実的に多くても5%がいいところだろう。

月々6万5千はかなりキツイけれど、ボーナス(年間60万)を生活資金として切り崩すというのであれば、できなくはないな。

あとは、インデックス投資だけではなく、日本株高配当や米国高配当のETFなどで、定期的に配当を貰いながら資産をつくっていく方が自分の性格にもあってそうだなと感じている、個人投資家株式投資をやっていくなら長期投資をしなくては勝てないと思うので、10年、20年と福利効果の力で資産を増やしていくことが大事なのは言うまでもないが、やはり人は移ろいゆくものだし、20年間もずっとご褒美も無しに課金し続けるのは、性に合わない。僕は配当金を月3万円は欲しいし、それも同時目標として投資を続ける方が良いと思っている。

配当金利回りを仮に「年率4%(税引後)」とした場合、配当金を月2万~月3万もらおうとするためには、600万円~900万円必要なのだし

そうなると、積立NISAでインデックス投資をする金額を押さえてでも、配当金を生み出す株にお金を回していった方がいいのではないかと現時点ではそう考えている。

 

まぁもちろん、業績の悪化によって配当金を減らされてしまうケースもあるので、必ずしも約束された配当金が分支払われるわけではない点に注意なのだが。。

 

沢山書いたが、興奮している間はうまくいかないし、現時点ではわかっているようで分らないことだらけの投資の世界に一歩踏み込んだだけなのだ。

直近でいうと、NISA口座と解説し、S&P500の積立を開始したのと、暴落した楽天の株を50だけ購入しただけの小さな小さな投資家でしかない自分。

 

投資家人生として今の目標は41歳までに総資産1千万円を築き上げること、そして投資かとして10年目を迎えて、自分なりの酸いも甘いも噛み分けた上で最適なポートフォリオを作ることができたらなと胸を躍らせている。

じっくり、ゆっくり、コツコツと、焦らず、情報に敏感に、リスクも上手に取って

1つ1つ資本主義社会の階段を登っていこうと思う。

2022年を振り返ってみよう

1年まるまる更新しなかったが、これもまた俺らしくて良いな。

もはやこのブログの存在すら忘れかけていたが、、、

因みに今までブログは高校1年から始めたのを含めていくと、4つ目になる。

アフィリエイト目的でもなく、知人に公開するものでもなく、不特定多数に見せるものでもなく、あくまでの個人の記録でしかないので、自分しか閲覧者は居ないはず。

 

2022年12月30日 晦日(金)

国家公務員となって、はや2年目、明後日には3年目突入か。

今年の正月休みは13連休を取得したものの実家に帰省することもなく、自分の時間を有意義なものに使おうと思い今に至る。

明日は、RIZIN vs ベラトールの全面対抗戦が行われるという、格闘技界(JMMA)にとっては歴史的な一日になる日であろうから、早くからUNEXTで早割でPPVを購入しておいた、明日は一日中格闘技にどっぷり浸かるため、1年の振り返りを今日行う事にする。

 

 

1月

正社員、国家公務員として初めて正月に帰省。誇らしげに名刺を配るw

義理の兄から「寒くて大変でしょ」と要らない同情を受けてイラっとした記憶がある。

タラバガニとホタテを持って帰ることにした。

銀座でルメッカを例年通り受けた、湘南美容外科二子玉店でクソ医者に当たり、大損を喰らった。初めての満額ボーナスに浮かれて金を使いすぎた1月だった。

仕事先に戻る前日に、セフレ関係のなつきとホテルinそこから彼女とは会っていない。

 

2月

23万円で買ったキャノンディールのバットボーイ1をメルカリで15万円で売却、実際には売れたのは2月、そのために交通費往復で3万円以上とメルカリに売上金を持っていかれてるから実質の利益は10万ちょい。

全国の職場に散らばった同期たちとコロナ禍のためWEB研修を行った。

だいぶ前から欲しかったアクアリウムに手を出した。メダカ水槽エンジョイ開始。

 

3月

初めて職場近くの海で船釣りを敢行。鱈は沢山釣れたが、酔いがひどく、何度か嘔吐して終始グロッキーであった。

初めての送別会、初の久慈にも行ってきた、煮干しラーメンうまい。

 

4月

職場内の異動。1人office 一人時間。スマホ時間。エンドレス。

高い目標と忙しくないと気が滅入ることに気が付き、プロジェクトチームに参画。

 

5月

GWは弾丸北海道、23時間だけ北海道に滞在という水曜どうでしょうバリのネタ旅を敢行。念願のすみれラーメンに行けたのは感動。youtubeララランダーズと出会う。初めての推し活。プレミアムナイルワニが届く、半年ぐらい待った約2万円。

家族が来る、青森旅行。奥入瀬渓流十和田湖星野リゾート、美術館素晴らしかった。

 

6月

なぜか匂いにハマりだす、色んな消臭スプレーを試してみる。けっきょくセルジュルタンスの金木犀の香りで2万弱するものを新宿伊勢丹メンズ館で購入。

天心vs武尊 THEMATCH東京ドームにて観戦。

9999の10万のメガネ購入。

大好きな愛犬に最後に会ったのは今年の6月か、、、

 

7月

安倍晋三元首相まさかの凶弾に倒れる。

同期で初めて親友と呼べるほど、仲良くできた人ができた、かげにしくん。お互い研修後飲み会2次会の後にホテルで朝4時まで語り合う、かげにしくん号泣。

サップに挑戦、面白くてハマりそうだ。

初めての監督用務、炎天下死にそうな暑さだった。

 

8月

マッチングアプリに手を出す、2万課金、ガチで3カ月間やりきることを誓う。

2週間後には100いいね近くあり10数人とメッセのやり取り開始。

自分がハゲていることにようやく自覚した、ショックだった、AGAクリニックを受けてハゲ治療を開始することに、、、

大曲花火大会に同期といく、無念な事に大雨で残念な結果に。

約1年ぶりに彼女ができた。

 

9月

怒涛のデートラッシュ、8人くらいとデートしまくった、もちろん奢ることになるのでお財布事情が痛かった。

夏休みを利用して九州のおばあちゃん家に数年ぶりにいく事に。認知症はひどいが、相変わらずパワフルであった、あと何年会えるか分らないので、毎年帰ろうと誓う。

福岡のビジホで宿泊してたら近辺でビル火災、屋台料理屋に行ってご飯食べてたらスウェーデン人と韓国人と仲良くなる。盛岡、大阪の夫婦とも交流。

2016年ぶりに藤木と熊本で再会、ホテル業のオーナーになっていてお互いに刺激を受けた。

 

10月

彼女と青森旅行。立佞武多すごかったなぁ。

煮干しラーメンは「ひらこ屋」が間違いないと確信。

家で初めての焼き肉プレートでの焼き肉開催。仕事場ではジンギスカンでの飲み会。

 

11月

新海誠の「すずめの戸締り」が公開初日から見たくて有給取得。

はじめてコーヒー豆を全自動コーヒーマシンで自宅カフェの念願を叶えた。

同期と後輩でBBQ。

彼女が居るけど、33歳の秋田美人身長173cmの子を自宅に泊めてデートをした。

 

12月

念願の高級炊飯器をゲット、kindlepaperwhiteをゲット。ニンテンドースイッチゲット。

W杯に熱狂の日々。

ララランダーズ解散に呆然とする(12月29日)

モンハンにハマる、←今ここ

 

 

20代最後の日に20代の10年間を振り返ってみた。

 

今日は20代最後の日。

後、数時間後には30代に突入。

時より人に言われる「顔が若いから20代前半かと思った」という、喜ばしいかどうかはさて置いて、自他ともに認める童顔な自分にもついに、年齢的には結構いい歳した大人になるのだ。

さて、年齢の区切りには「青年」は15~24、「壮年」は25~44、「中年」は45~64らしいので、青年時代を過ぎて早6年が経とうとしているのだとさ。

 

 

20代をざっくりと思い出に残っている(印象に残っている)ことを切り取って、書いてみようと思い、久しぶりに筆を執った次第である。

 

【20歳】

成人式は行ってなかった、地元には友達と呼べる友達がいなかったので不参加であった。短大時代の2年生の頃は、アバ〇〇コースというスピリチュアルな世界観にドはまりしていた時期だった、元はと言えば須藤元気さんに強烈に憧れを抱いていたことが事の発端だと感じている、お金もないが熱意と突発的なところだけはあるので、親を説得してお金を出してもらい、2週間程アメリカのフロリダ州に行ってセミナーに参加していた。費やした総合金額はおおよそ40万ぐらいしたんじゃないだろうか。

初めての彼女が出来たのも20歳の時、yahooのマッチングサイトで出会った1つ年下の女子大生、初体験もこの歳だった。4大に進学する気はあったが全く勉強をしなかったのでそのまま短大を卒業、就活をしなかったのでそのまま、フリーター生活へ突入。

派遣バイトに登録して日雇労働者経験をして、社会の底辺を味わった。ある日の工場バイトで知り合った3歳年上の女の子と交際に発展(大学生だという事を騙して)したので初めての二股をする。

 

【21歳】

父親に専門学校に行きたいとお願いし、21歳の春からまた再び学生に。

今度こそはちゃんとした仕事に就きたいと思い目標は〇〇省のレ〇ジャーにした、あまりにも勉強するモチベーションが続かず、けっこう見た目派手な感じでちゃらんぽらんな学生でのらりくらりと過ごしていたように思う。夏休みには1カ月間もの間、白馬岳の白馬山荘で住み込みでアルバイトをした。

 

 

【22歳】

春休みに友達と熊本のおばあちゃん家に行こうと思い立ち、ロードバイクで東京から走り出した。結果的に東京、神奈川、静岡、愛知、奈良、兵庫、岡山、広島を走ることができた。我ながらよくやったと思う。広島で膝が壊れて、そこからは新幹線で熊本まで上陸、その後は鹿児島の桜島ロードバイクで一周したのも良き思い出。

夏休みは石川県の白山の山小屋で約1ヶ月住み込みバイト。

就活の時期、公務員試験を専門科目だけしか頑張らなかったため不合格。

 

【23歳】

アメリヨセミテ国立公園で環境教育プログラムがあると知って1週間程、渡米。

アク〇〇レ〇ジャーに応募したが、書類選考すら通らず、そのまま訳わからん友人の訳わからん営業会社に入社。約二カ月余りで無理だと感じて辞表を叩きつけて退社、その後に就活をリラクゼーション業界に絞って2社から内定を貰う。

8月~10月の期間に日〇協でアルバイト、初めての収〇調査、過酷さを肌で実感。

ベンチャー企業に就職、初めてまともな職種にありつけた瞬間だった、田園調布に配属、同期と社内恋愛で付き合う。そこそこ楽しい時期だった。

 

【24歳】

二輪バイクの免許を取得。

入社1年目の夏頃に骨を骨折、入院&手術で労災認定されたので無職ながら月給を頂く貴重な経験をした。ちょうど、仕事をしていてもあまり身が入らない時期で、本当にやりたいことは、他にあると模索していた時期。入院期間中に意を決してもう一度公務員試験を受け直すことにした。専門学校にも特別授業を受けさせてもらった。

 

【25歳】

骨折を気づかってもらい負担が少ないとされるストレッチケアの店に配置転換を命じられた。後楽園に進出。最高の人間関係の中で仕事が充実、同僚の女の子に恋をしていた。しかし今まで最も通勤は大変だった。

長期休暇中を取って彼女と初めてのインドネシア、バリ島や大阪旅行が楽しかった。

 

 

【26歳】

親友を一方的に攻撃しまくり相手のメンタルを壊してしまう、絶縁状態を経験。

箱根でアクレンの募集があることを知り、自分史上最も力を入れて書類を作成した結果、書類審査と面接試験をクリア。ARになれることに喜んだ。

実家で愛犬を飼うことになり、兄弟でお金を出し合った。

マネジメント試験を高得点で一発合格を勝ち取り、店長として働く。その後、新宿に異動した後また店長として2月まで働く。3月は実家の最寄駅近くの店で勤務。

初ソープを経験、しかも7万円代の超高級なやつ。

箱根に引っ越し初めての一人暮らし、初めてのデスクワーク。

民間と行政の仕事のやり方が全く違うので困惑していたら半年が過ぎていった。

入省1年目の春初夏に官用車で物損事故をやらかす、修理代請求で70万程の損害を出す。

同期とお局の陰湿さに辟易した日々を過ごす。

 

【27歳】

勉強しなきゃいよいよ後がない時期に突入。しかしあまり環〇省の仕事のやり甲斐の無さに絶望、徐々にモチベーションが下がっていく。

そんな時期にも彼女をつくってしまいさらに勉強に精をだせなくなる悪循環。

この時が20代で一番、いろいろと苦しかった時期かもしれない。

更新時期が迫った時に所長からは「更新が難しい」と言われ、やけくそになりこちらから1月に退職することを決意。(在籍期間1年10カ月)

 

【28歳】

2月からは完全無職。何もかも失って、実家へと戻る。

猛烈に勉強、勉強、勉強に費やす。

国家公務員試験だけではなく、地方公務員(市、県)も独立行政法人も、とにかく専門試験が共通ならどこでも受けていた。

猛烈な勉強の甲斐あって、無事に最終合格を勝ち取る。

28歳の1年間だけは20代で唯一彼女が居ない時期だった。

 

【29歳】

新車(380万)を購入。親戚一同に盛大に祝われた。

バイトを掛け持ちしてめちゃくちゃ働いて何とか社会復帰。

3月に沖縄八重山諸島の離島めぐりで5島を制覇。なんと彼女もつくってくる。

大阪、京都と彼女とデート20代でもトップクラスに最高の時間を過ごした。

初めての東北、岩手で初勤務。仕事のイロハを22歳の先輩に教わる日々を過ごす。

ある事業で発表者に名乗り出たことが高く評価され、人事評価Sを頂く。

半年間の試用期間を終えて、本採用となり本物の国家公務員となる。

新築同様の官舎で最新の暖房器具や家具に囲まれQOLの高い日々を謳歌している。

 

 

本当にざっくばらんに記憶の断片を回収して、思いつくままに筆を走らせてみた。

20代の想い出は1冊の本でも収まらないぐらいの濃縮な人生だったように思う。

だから、本当はこんなもんじゃないのだけれど、特に印象に残ったことだけを書きだすとこんな感じになる。

 

ありがとうございました。20代の青春の日々よ。

全行程を駆け抜けてきた実感はこれと言ってないが、それでも他の人よりはアクティブに色んなことを経験した10年間であったと自負している。

 

料理、筋トレ、カメラ、映像制作、ダンス、キャンプ、登山、恋愛、瞑想、ストレッチケア、ボディケア、健康管理、読書、映画、音楽、自転車、温泉巡り、勉強、ファッション、浮気、絶縁、大怪我、手術、国内・海外旅行、美術館、愛犬、バイク、スピリチュアル、自己啓発、店長、ボーナス、正社員、アルバイト、就活、営業、ベンチャー企業、転職、派遣社員契約社員、非常勤職員、日雇い労働者、パワハラブラック企業、無職、ニート、風俗、不合格、合格、昇給、昇進etc....

 

本当にありとあらゆることを経験できたと思う、その中で忘れ去った物もいくつもあるけど、それでも自身の血となり肉となった経験は今後の人生に必ず役に立つだろう、30代へと続く我が人生がこれまで以上に実り豊かな良き人生へなるよう一生懸命に勉強しながら時を前に前にと進ませていきたい。

29歳になり2カ月経って思うこと。

2021年になった。

今年は30歳になる節目の年であり、国家公務員として働くことになる、我が人生で大きな意味を持つ年となる。

 

28歳から29歳になる直前に書き記した、これまでの20代の振り返りはもう行う必要はない。私は、着々と人生の第二章を生きているからだ。

これからの激動の第二章は、これまでの人生よりも更に輝いて素晴らしいものになると確信している。

 

さて、29歳になってから約二カ月弱で何が起きたかを書き記しておくことにする。

まず、合格をした場合は「やりたいことリスト」を作成したのでそれらに沿って、できるタイミングで達成していた。

それらは、以下の通りだ。〇が達成で空白は未達

 

1.海外旅行、国内旅行
〇2.友人と遊ぶ
〇3.美容系に力を入れる(ほくろ取る、にきび、しみ抜きetc)
〇4.髪を染める
〇5.時計を買う、ヘッドホンを買う、服、靴を買う
〇6.iPhone12を買う
〇7.宇宙兄弟全巻を買って一気読み
〇8.気になる本を大量購入して読みふける
〇9.親戚一同で祝賀会
10.異性との交遊・彼女作り
〇11.テント泊・キャンプ・登山
〇12.学校に報告、お世話になった人へ報告する
〇13.映画三昧
〇14.施術を受けに行く
〇15.アルバイトで稼ぐ

 

ほぼ、コンプリートしているのである。

いかに濃密で充実した二カ月を過ごしているのかが分る。

 

今では、上記のやりたいことは私にとっては普遍的な日常にすら思える。

しかし受験時代は制約がかなり辛く、交友関係など皆無であった。家族とも話す事なんてほぼ無かったので一日無言のまま独り言だけで終わるなんてことがある日常で無味乾燥な刺激のない日々であったのだ。例えば、映画やドラマが見れる時間は無い、そんな時間があったら一問でも多くの問題に取り組むし、何より勉強時間外の事に時間を費やすことに罪悪感と切迫感と危機感と焦燥感が感情に渦巻くので、はっきり言って娯楽を楽しめるメンタリティではないのだ。つまりある種の神経症に悩まされていた。

 

最終合格を経て1週間が経過したころだろうか、ようやく上記のリストを1つずつ楽しめるようになってきた。半沢直樹シリーズ下町ロケットや逃げ恥などの人気ドラマを享受したり、鬼滅の刃のアニメを全作品楽しんだり、映画館に出かけたり、プライムビデオで映画を一日に3本ぐらいのハイペースで消化したりまさに、娯楽に浸りまくった。幸せであった。普通の人が普通にドラマや映画を堪能したりする日常が、私は1年間ほどは無かったから、水が与えられなくなった植木鉢の土は枯れていて、常に水を欲す状態から、ふいに恵の水が降り注いだら水分をグングン吸収するだろう。それが乾きが満たされるまで水を吸い続ける。当時の自分は娯楽という精神的な栄養素が枯渇していた。だから朝から晩までずっと娯楽に勤しんだ。必要な栄養素を欲する飢えたハイエナのように娯楽にがっついたのだ。振り返ってみても充実且つ必要な時間だったように思える。

 

思い入れのあるリストはやはり物的な物よりも人とのコミュニケーションが多い。

代表的なのは親戚一同での祝賀会である。

某高級鉄板焼きを予約して、親戚一同で祝った。1人3万ぐらいするコース料理を10人で集まり食事。祝い金やプレゼントも頂き、本当に嬉しかった。

自分の人生を変えるために一生懸命に頑張ってきたつもりだけど、近くの人にも喜びを与えられたと思う。それが誇らしいし、私の人生の最高の瞬間であった。

 

また、勉強しかやってこなかったため、この一年間は人付き合いがすっかり疎遠になってしまった中で親友や友達やお世話になった方への報告をしたことも大きな出来事だ。

私はこれまで、非正規雇用で働いていて常に将来のビジョンが見えない中で20代を過ごしていた、卒業してからというものうだつの上がらない日々を過ごし。劣等感に苛まれ「〇〇は今何している?」の質問に恐怖すら感じる始末であった。

 

そのためFacebookの更新では自分の職歴など書けないし、誇れることも無いし。同窓会なんてものが開催されたら出席する気などさらさらない。今は違う。胸を張って国家公務員であるといえるし、言った瞬間に相手が驚きの表情に変わることを目にすることが多くなった。

【安定した地位と信頼の職に就いている自分】そういう自分に心の底から絶対的な精神の安定を内深部から支えているのだ。

私は、過去の記事でもふれたが、学生から社会人なり喪失した9年間を過ごしているうちに神経症になっていた。安定した職に就いていないため未来の不安に心が押しつぶされそうな、なんとも耐え難い気持ちになる神経症のことだ。

それがいつも自分の心の隅に存在していて、それがどこかで最後まで自分に自信を持てない理由であった。だから恋人との時間や親友、家族といても不安定な自分がいた。

でも今は違う。再三にわたって言うが、第二章の人生がスタートしてからは、漠然とした自分の将来の不安からは解放された。

初対面の人と会って自己紹介するときも、友人に会って最近何してるのか?と聞かれた時も、家族と未来の話しているときも、堂々と自信に満ちて自己表現をすることができるようになった。これは精神的な革命だ。「自分が変われば世界は変わる」と聞いたフレーズがあるが、まさに自分を変えた瞬間に未来も変わって、付き合っている人とのやり取りも変わってきた。もちろん理想のいい方向へと。

Facebookで合格の報告をした、5年ぶりの更新である。

いかに20代が暗黒であったかを、この時間経過で想像するに難くない。

5年間ぶりに更新、5年前は学生だった専門学生。お気楽な身分だった、だから海外旅行まがいな記事を更新していた。でも卒業していい会社に就職したわけでもないので、そこからの5年は正直、触れられたくない日々を過ごしていた。

しかし、合格後に意を決して国家公務員になることができたと報告した。見ていない人が大半だろうけど、その中でも結構の人が驚き祝福をしてくれた。存在を消した5年間からの解放であった。私の生きている証明、それも活躍してキラキラと輝く生きた証明がFacebookの更新であるのだ。

 

以上の様に、これまで自分に関わる多くの人に自分の夢の達成報告をしてきた。

それは様々な反応が見られた、大抵は「すごいね、おめでとう、よく頑張ったね、これから頑張って」というポジティブな反応、または男友達は嫉妬や悔しそうな表情も垣間見れたそれはそれで、最高の瞬間である。なぜなら悔しいと思うということはその人よりも上にいる事の証明でもあったから。マウントを取り合うのが男友達の基本コミュであるのでこれは最高に栄誉な瞬間なのだ、これは女には分らない感情だとは思うが。

 

なによりもこれらの、友人から得られるリアクションに対して自分は、少なからず自分に誇りを感じたし、人から賞賛を受け、凄いと認められるという経験は何事にも代えがたい人生の幸福の瞬間であるのだ。その最高で幸福の祝勝の瞬間を味わうが為に、高いハードルを用意して乗り越えるための努力と研鑽の日々を過ごしたといっても過言ではない。そんな並大抵以上のことを成し遂げる人は数少ないし、多くの人は出来ないのが普通。それでも自分を信じて最後まで諦めなかった人だけが、最高の感情を味わい、その後の人生の糧として強力に精神的な支えとなるのだ。

 

上記の事を振り返ってみて、改めて感じるのは。

夢を持つことの大切さ、夢を叶えるための道中が長く険しいほど達成感があることだ。

普遍的で月並みな事実こそが最も難しい、続ける事が最も尊いと今は感じる。

偉大な天才である宮崎駿監督がこんな言葉を言っていた。

www.web-freelance-life.com

 

宮崎駿「大事なものは、たいてい面倒くさい」

 

 

夢を叶えるための努力は面倒な作業の連続で地味。

だけど、人生で最も大切なことがそこにはある。

 

そんなことを前提に、私はこれまで以上に面倒なものと向き合い、人生をより良くしたいと思っている。

 

 

 

夢と共に生きた20代

2020年2月1日 とても寒い冬の晴れた日だった。

親戚一同が集まって私が仕事を辞めたことと、これから行う夢についての共有をした日だ。大そうなことを言っているが、ただ単に最初は両親の親元で勉強する気にならなかったため、今は無き祖母の家を借りるための説明の場だったのだ。それに一人暮らしに慣れ切っていたし、それこそ没頭して勉強に励むために親の目が無い分、自由度が高く勉強できると思ったからだ。

そういうシチュエーションだったが、本質的には「○○を目指す」という一点を共有したことは確かだ。それに対してのプレッシャーは半端じゃなかった。元々私は夢を家族に言ったり共有するのは嫌いな性質である、子っ恥ずかしいし、それに夢なんてものは叶わない事の方が多い、変に期待を持たせても悪い。というか、私の人生の夢なんて、他の人に知ってもらう必要性はない、無言実行をして成し遂げてから語るのが誰かに干渉されたりもしないので最も良い方法である。

 

その夢の宣告の帰り道に色んな思いが交錯した。

歩きながら、ふと視線を上げたら淡いマジックアワーをバックにすっかり葉を落とした街路樹が綺麗に見えた。

f:id:bcsyelliy:20201113222607j:plain

【2020/2/01 17:00 夕景と街路樹】

この情景を見ながら、私は必ず夢を叶えると覚悟を決めたのである。

 

そこから

一次試験の8月9日までは猪突猛進で勉強に打ち込んだ。

私は仕事していない、多くの人は皆仕事や学校などやるべきことをやっている。

ならば私も、その彼ら彼女に負けず劣らず勉強に精を出す、それ以上に精を出す、ある人が普段通りフルタイムの8時間で仕事して帰ってくるならば、私は最低でも8時間は勉強を行う、当たり前のように。そのようなモチベーションで毎月、毎月勉強時間を増やしていった。

 

f:id:bcsyelliy:20201113224608j:plain

f:id:bcsyelliy:20201113224601j:plain

月の最高勉強時間は331時間 

週では87時間50分 

日では14時間

 

つまり、起きている時間はほぼ全て勉強に打ち込んだ。

寝る、風呂、歯磨き、ペットと遊ぶ以外はほぼ勉強だ、それこそご飯も食べながらインプット、トイレも何か覚えたり、記憶を思い出すようにしながら用を足す。そんな狂人的な日々を過ごすことになった。

 

そうした。甲斐もあり無事に一次試験を合格できた、教養に関しては作戦ミスでギリギリの通過になってしまったが、専門は平均的な出来、前回足切りになった小論文に関しては、なんと60の標準点(最高得点)を叩きだし、最高のリベンジを果たす結果となった!まぁ私よりも小論文対策をした人はいないだろうと思うほど、熱を入れてやり込んだので当然ではあるが、どの分野が小論文で出るのかは運ゲーでもあるので本当に良かったと思う。

 

そして、官庁訪問も今年も内々定を頂き、人事院面接もB評価でクリアしていた。

この成績結果は最終合格後に知ることなのであるが・・・。

 

最終合格の前日、本当に寝付けなかった、何度も起きてはトイレに行った。なんせここで落ちたら、、、ありとあらゆる犠牲を払って、リスクを背負って挑んだ今年の国家公務員試験。しかもコロナ禍という未曾有の不況にさらされているなか、無職の28歳の男、、たったの半年前まで(2020年の1月や2月までは)売り手市場で就職内定率や有効求人倍率は過去最高だったはず、、もう民間での就活絶望的、、、親戚一同に夢を表明するも破れたら恥ずかしいし、もう二度と胸を張れない。。。いろんな悲観的でネガティブな妄想が脳裏によぎり寝付けなかった。今振り返ってもこんな状況でスヤスヤ眠れるわけもない、なんせ人生が掛かっているのだから。

また、ネガティブだけではなくポジティブも考えようと試みた。受かったらどんな世界が待ち受けていつだろうか。まず、長年(8年~9年)ほど続いた神経症のような劣等感と焦燥感に悩まされるとはなくなるだろう。それだけでも全く違う人生なのだが、それだけではない、結婚もマイホームも車も手に入れることはできるし、普通の暮らしぶりをするのなら、生涯金銭面で苦労することは無くなるのだ。また、社会的な地位もあり、信頼度も高い職種でやりがいもあり充実の日々を過ごすことができる。短大を出て、専門も出てから社会人になっていた頃に、それらの何も成しえることができないと思っていた。それが、自分の夢を叶える事で実現できるのだ、それはもう天国と地獄の差である、雲泥の差である、運命の分かれ道は10月13日にハッキリとわかるのである。

 

朝8時頃、眠りが浅いため快調に目覚めた。

9時に最終合格発表でHPから知ることができる。午前9時ちょうどにPCに向かった。

受験区分、受験地などの項目を進めていくうちに心臓が高鳴るのが分る、、ドックン、ドックン、ドックン、はぁあ、はぁあと呼吸も荒くなってくる。今更どうあがいても内容は変わらないのだが、落ち着きを払って結果を確かめる事は不可能であった。

受験番号を確かめる、小さい数字から順に追う、もう少し下だ、スクロールを下げる、ジリジリと下げる、もうすぐ自分の番号付近だ、、内臓が口から出そうだ。。

【99○○〇〇】を見つけた!自分の番号だ、目を疑った!もう一度自分の受験番号を見る【99○○〇〇】だ 間違いない!! 最終合格している!!

家には私一人だとわかっていたので、感情を大爆発させて叫んだ『最終合格してる!!最終合格してる!!最終合格してる!!』歓喜に湧いて、ベットを叩きながらなお叫び続ける『最終合格してる!!最終合格してる!!最終合格してる!!』マットやら掛布団は散乱しまくった、発狂しながら叫び狂ったように喜んだ、若干外の窓が開いていたので近所迷惑になるぐらいの雄たけびで喜んだ。喉が潰れた、冗談じゃなくて声が数時間ぐらいかすれてしまうぐらい声帯を痛めるぐらい叫び喜んだのだ。まさにこれぞ狂喜乱舞!

 

2020年10月13日午前9時 私は20歳から想い続けてきた長年の夢を掴んだ。

9年の月日が流れていた。夢を叶えるまでに9年の歳月。途方もなく遠くまで夢を追いかけていたのだ。ある時は違う夢に目移りしたが、当初からやりたかった仕事の理想形とほぼ同じ夢を叶える事が出来た。

 

夢追い人だった20歳の青年は歳月を得てあと残り30分で29歳のいい年をしたアラサーである。ようやく終着点にたどり着いた景色から、20代前半、中半の自分に対して贈る言葉があるならそれはなんだろうか。

たった一言だと思う「諦めるな。誰に何を言われようと自分を信じてやれ。」と言いたい。

f:id:bcsyelliy:20201113233346j:plain

 

さて、29歳の自分、いよいよこれから私の人生の第二章の始まりだ。

やりたいことをやりきろう、そして、毎年、毎年自己更新記録を打ち立てられるような、自分が自分の事を好きで誇らしく想えるような人になりたい。

新たな”夢を想像して創造していこう”

悔しさを押し殺して、逆転の一手を打つ

私の夢は公務員になることではない。

そして、目指したというより、根源的には自然系業種は食える職業はほぼ無いのが現状であり必然的に辿り着く最適解が公務員であった、それも地方ではなく国家の方。

自然系の業種で景気が良いと聞いた話は、屋久島でガイドを行っている人の年収はゆうに700万は越すらしい。屋久島で年収700万クラスだと物価も賃貸も安いのでかなり裕福な生活ができるだろう。それにフリーランスなので他にも仕事を掛け持ちできるため経済的にはかなり強い。他の自然系業種はNPOやらビジターセンターの運営やら、お金に縁遠い仕事でボランティア活動のようなものばかりだ。調査系は少しは企業に勤めることで少しは安定するだろうが低賃金だろう。

 

そういったこともあり、経済的に安定して銭勘定に一喜一憂をすることなく好きな自然系の職種に就こうと思ったら辿り着くのは大抵の場合は公官庁などの行政職での技術職なんだろうと思う。

私は、日本の自然、それも一等級の大自然の中で働きたいという想いが予てからあったため、自ずと国立公園や世界自然遺産などを管理している環〇〇や林〇〇が夢の最終地点であった。

 

話を前回の続きに戻す。

bcsyelliy.hatenablog.com

 

私の方法でAR→Rになろうとしている人は存在した。

一つ年上のYさんだった、彼は私と全く同じ方法で実績をつくり筆記をクリアした後、面接試験も突破しようと足掻いていたのだ。彼は結局、在任中に見ごと最終合格を掴み転職を果たした。だが、第一希望の環○○ではなく併願先の林○○であった。

私も同じ年に挑んだが前述のとおり箸にも棒にも掛からぬ結果に終わった。次の年の2019年はそこそこの勉強であったが一次試験は突破できた。その後に、Yさんに面接対策について教わった、そこでは林○○はこういう人物を求めていて、自分が関わる仕事は○○と色々な情報を貰ったのだ。その中でも林○○での仕事の面白さや環○○よりも現場に出ることがおおいことなど、前回の記事に書いた通り憧れだったRが味気なくつまらないように感じて目指すモチベーションが薄くなっていた時期に林○○であれば、私のしたい事は実現できるのではないか、それに自然の中でも森林が最も好きな分野であるし、自然系業種としてその道を究めるなら林業の方が良いと考えたのである。夢の姿は次第に林○○に変貌し輝きを放っていた。

2019年の試験は内々定を貰い人事院試験の面接ではA評価を貰った。

実はA評価というのは物凄い事で

A評価(約2〜3%)、B評価(約20%)、C評価(約60%)、D評価(約15%)、E(約2〜3%)※国家一般職の人事院面接は、E評価で問答無用不合格

 

上記の様な評価別に区分されるので、誇らしいほどの結果を残したのである。

しかし、なんと愚かなことか小論文の対策を秒もやらなかった代償として、小論文は文字数未達で足切りとなってしまったのだ。筆記試験をパスして希望省庁から内々定まで貰ったのに、小論文で足切りになるという愚の骨頂を体現したのだ。一次試験の合格を上司やYさんに伝えていただけに、恥ずかしい結果を迎える事になった。

 

そこから、2019年11月と、時は流れ人事調査の季節になった。

非常勤職員は来期の更新をするかどうかのヒアリングが行われる、私は当初、来期も事務所に残り3年目も希望していた。だが、所長が「いまのままだと厳しい、なぜなら二人の非常勤と上手くやれていないからだ」と切り出すのだ、つまり私は2期限りで更新はされない、クビを宣告されたのだ。憤りや悲しみを味わい絶望したのだが、すぐさまこれはある意味最大のチャンスなのではないかとも思った。

その1週間後に所長と今後の事を話す時間が設けられたので、私の方から「今期をもって辞職します、そして早期辞職で1月末で退職をして勉強に打ち込みます」と宣言したのだ。所長は意外そうな顔を見せたが最後は「公務員になれることを応援している、頑張ってほしい」と言ってくれたのだ。そのため円満退社となり私はエーアールを2年弱勤めてすっぱりと辞めた。

 

次なるステージは完全に孤独な道で険しいが、チャンスをものにするには何かを捨てなければならないし、そうしないと成功を得ることなんてできないのだ。