『こんなオジサンみたいになっちゃ駄目だよ』

話はずいぶん過去に立ち戻る。

私の家族は転勤族であった、そのため10代の頃は3回程引っ越ししては新しい土地で友達を作った。

そこで、物心がついた最初の転校先でのことがよく思い出すことがある。

あれは、小学生の2年生か3年生の頃だったろうか、いつのもの様に西宮のとある小学校に登校している最中だ、学校からは隣に構えるのは、大きな酒の工場で、そこの工場には門番の方がいた(警備員のような仕事だと思う)通学路を歩いている子供たちに「おはよう」など挨拶を交わしていた。その50代か60代ぐらいの警備員さんが私にも挨拶してくれていた、そこでたわいもない会話をした。

そしたら不意にその警備員の方が「今日も小学校頑張っておいで、こんなオジサンみたいになっちゃ駄目だよ。」と言ったのだ。

当時は小学生の低学年で正直何を言っているのかが理解できなかった。このオジサンの何が駄目なのだろう?そう思っていた。不思議で言っている意味が分らなかった、だからこそ自分の頭で考えて今日の今まで記憶に留めておくことができたのだろうと思う。

 

でも、今ならそのオジサンの言葉の意図を汲み取れる。

年齢から考えて50~60代で門番をする警備員ということは、おそらく非正規雇用者だったのではないだろうか。その人の人生の事は一部分の一場面しか見てない、しかも幼い自分の記憶から推測しかできないので、何も確証はないのだが、その「こんなオジサンみたいになっちゃだめだよ」という自己を卑下する言い方をするということは、今の職業に誇りを持ち合わせていないということだろう。

「小学校頑張っておいで」と言ったのも、「勉強や何か身になることを一生懸命頑張ることが将来良くするんだよ」とも解釈できるのだ。 

そのオジサンは今どうしているのだろうか、あれから19年ばかりの歳月が経とうとしている仮に60歳だとしてもう80歳近いお爺ちゃんになっているね、、。今もご存命なのだろうか。今は自分を卑下していないだろうか、今も若い世代に励ましの言葉をおくっているだろうか、そんなことをつい、今日は考えてしまった。

あの何気ない一度きりの会話からこぼれたフレーズは、私の記憶に今もとどまり続け、時より脳内で反芻するのだ。そのたびに、思うことは「今一生懸命がんばっているか?なりたい自分になれているか?」と自問自答をする。

 

私はもうすぐ29歳になるが、これまで様々な仕事を経験した。その中で感じるのは

 

職業による貴賤はない。 

 

というのは「きれいごと」だとは私は思う。

でも、人によってその仕事に対しての情熱や誇りの感じ方は違う。いわゆる一般社会の一般常識に縛られた職業観なるものに縛られて見るのは実につまらない考え方なのだろうとも頭では理解できる。

だから私は「おじさんのようになっては駄目だよ」の言葉の意味を考える時、その”駄目”の基準というのは非正規雇用ということ以前に、自分が就いている職業に情熱や誇りを持てるかどうかなのだと思う。

大事なのは”一生懸命に情熱を傾けてやれる仕事をできているか”なのだ。

そういった意味では、幸いにも私は自分が好きな環境でおそらく仕事ができるはずだ。そのためにこの28歳の大部分を将来の投資と思って懸命に勉強してきたのだから。

 

オジサンには今は会って話すことができないだろうし、きっと奇跡的に会うことがあったとしても私に放った言葉などきっと覚えていないだろう。そう思うと、人と人が出会いどんな言葉を贈り合いそれを受け止めて人生と共に生きれた”言葉”というのはとても凄みのある価値なのだと痛切に感じる今日この頃だ。自分もいつか、誰かの人生の傍にいつまでも残る想いのある”言葉”を贈りたい。そんな日とタイミングと人が現れる日が来ますように。