河川敷で誓った夢

前回の続きを記す

bcsyelliy.hatenablog.com

 

 

私の夢は、一定不変ではなく、人生のシーン(立ち位置や影響)によって移り変わりを見せていくものだ。

そしてその夢という生命体は私の人生に常にすぐ傍にいる、そんな共生関係のような存在である。

 

さて、前置きは置いて、本題に入ろう。

私は、10月13日に長年の夢を叶えた。長年といえるのは、20歳から夢を持ち、その道程が凄まじく長く紆余曲折に満ちたものだからだ。生憎だが平坦な道のりで最速最短で夢まで辿り着ける方法は私には持ち合わせていなかったのだ。

 

思えば、20歳の頃だ。初めての彼女ができた。初めての交際が20歳というのは平均的に遅いかと思われるかもしれない、しかし男子高出身であったため交際面でのハンデはあった。当時はyahooの出会い系サイトに登録をして、一つ年下の他大学の女子と連絡を取り合い、月並みな恋愛をした、デートを重ねてこちらから告白して付き合った。

そして、私はあろうことか浮気をする、相手は自分よりも3歳年上の社会人女性だった。申し訳ないが年上の彼女の方が年下の彼女よりも魅力的に映ったのだ。二人の女の子と交際をするときの面倒さ、大変さを理解してなかった、同時並行で連絡を取り合いデート代も2倍、日程調整も二人の彼女のケアも大変極まりなく、それに罪悪感が日増しに増していったそのため、年下の彼女に別れを切り出した。

そこで使った口実が実は”夢”だったのだ。なんというか不純。今になって思うけど卑怯だなぁ。

その夢はいずれは「〇境〇の仕事に就いて国〇公〇の管〇人になりたいと思ってる」と伝えたのだ。この当時の学力からしたら無謀だし、唐突だ、その夢を追いかけるために時間が足りない、だから交際を辞めて、勉強に専念をしたいということを伝えた。

この夢の壮大さに彼女は理解を示してくれた。「本当に大変な目標だし、仕方がない、でも浮気とかだったら引っぱたいていた」と。騙して気分が良い訳がなかったがそれで彼女と別れた。二子玉川の河川敷で、夕暮れ時から夜にかけて。最後は稲田堤の彼女の家まで徒歩で見送った。見送った後に、もう二度と会う事が無いと悟ったのか彼女の方から「またね」ではなく「さようなら」と言われた。遥は今どこで何している?元気にやってるか?夢は無事に叶える事が出来たよ。

稲田堤から自転車で実家に戻る最中に、彼女との思い出がフラッシュバックして涙が込み上げてきた、無我夢中で自転車を走らせて泣きながら叫んだ「ぜったいに夢を叶えてやるからなぁ!!」

 

それから月日は経つ、夢がある自分は定職に就く気はさらさらなかった。二股をした年上の彼女との交際をし続けていた。しかし転機が訪れる。彼女が転勤になるとの報告を受けた。しかも海外転勤、場所はグアム。20歳の自分は無謀にも超遠距離恋愛を望んだ、頑張ってお金をためて半年に一度会いに行くからと。でも、フリーターである自分に見切りをつけたのか、やんわりと別れを切り出された。彼女を失った自分、そしてうだつが上がらないぼんやりとした日常を過ごす20歳の自分。今思えばこの時の焦りというのは半端じゃなかった。仕事は日雇いバイトに登録をしていて、ある日はベルトコンベヤーで右から左に流れてくる物を段ボールに詰めていく作業を一日中こなす工場で勤務していたこともある。周りの人たちは幸福そうな人は誰もいない、社会不適合者の烙印を押され、不遇な人生をさまよった人たちの終着点がその仕事の様に思えてきて、長い間この空気を吸って、同化してしまうのならば、将来、自分も同じような人生になってしまうんじゃないかと背筋が寒くなった。

 

そこから決心を固めて、次に進むことにした。本来であれば短大を卒業後に浪人して4年生大学に編入を考えていたが、もっと専門的に学べて就活に特化した専門学校に入学することにした。親父の理解があり無事に進路が決まった、本当に有り難かった。今思えばタイミング、タイミングで親の協力なしには今の人生はあり得ない。当時は大して感謝の念はなかったのだが、こうして人生のターニングポイントを振り返ることで親の偉大さが身に染みて分る。これからの人生は節目節目で何か親に恩返しをしなくてはならないな。そういう気持ちに自然となる。

 

さて、専門学校はいわゆる技術屋を育てる上では最高の環境だったように思う。私が将来の夢として描いていたビジョンも、卒業生の進路先にあり、憧れが一段と身近な物に感じ取れたのが何より嬉しかった。

 

 to be continued…