崖から落ちたら踏み台を見つけて登るしかない
怪我は大きなものであった。針金を入れて骨が安定するまで固定する。
その間には可動域が狭まり、当然手首には異物感が残り気になる状態であった。
結局は1年後に固定器具の針金を抽出するために再手術をすることになるのだった。
仕事には、なんとか復帰することができた、それには手首の負荷が軽い施術内容の店に異動することができたからだ。そこの店では以前勤めていた職場の人間関係とは比べものにならないくらい良好な人間関係が築けたし、同僚に恋心を抱くなどちょっとした青春も味わった。その当時は別の彼女がいたので最終的には交際までは進展しなかったのだが。
その新しい店はストレッチ系の店であった。当初は社員が店長を含めて私と二人しかいなかった。その店長も子育てを理由に店長を辞めて、私が代わりに店長となる引継ぎが行われた。店長としてのキャリアを経験したのは26歳だ。
そもそも、店長になるためには研修で合格しなければならなかった。座学を受けて、講師と受験者の前でホワイトボードを用いながら15分間程のプレゼンを行う。
かく言う私は、人前に立って話すのが非常に苦手であった。短大時代に同じようにプレゼンの機会があり大失態を犯してからはすっかり恐怖症になってしまったのだ。
しかし、社会人となり面前に出て話す機会が、その会社では多々あり慣れる他にどうしようもない状況ではあったので、15分プレゼンに関しては徹底して努力をした。
座学は通常の3倍以上出席を重ね、合格者と不合格者のプレゼンを録音し、分析し、ノートにまとめ、録音をひたすら聞き繰り返すことをした。そして自らも自分でプレゼンを行い録音をした。また仕事終わりに同僚に協力を頼みプレゼンを聞いてもらうなども行い、研修の日を迎えた。結果的にはその日は5人発表を行ったのだが、5人中で最も点数が高く評価されたのだった!努力が報われる瞬間はとても気持ちがいいし万能感を味わえるので、これからもこの経験を糧に、努力を惜しまず自分の苦手なことにも挑戦していきたいと思う。
さて話は戻すが。
年上の先輩アルバイトは30代~40代もいたので気にしながらのマネジメント業務は大変難しかった。けっきょく最初担当した店は店舗契約期間の延長が通算利益の水準に達しないとの本部の判断で店を畳み、次には新宿で店長をすることになった。
年が明けて1月~2月までの期間で店長をしていた。その間の2月頃になんと、前々からずっと求人を求めていた環〇〇のARのしかも〇根地域での募集があったのだ。
正直最初は今は会社員として自分の意思次第だがずっと続けていけるし、求人内容はしょせんは非正規雇用の任期雇用なのでいずれかはまた転職しないといけないということもあり迷ってはいた。
しかし、今私がいる環境は本当に望んだものではない、そして今後何十年も続けていく自信がなかった、それは給与面でも、休みの少なさでも、将来の不安があったから。
そして、このARの職に就けることができれば、ステップアップとして試験に有利に働かせることができた。そもそも、以前はARの面接試験すら受けられず書類選考通過すら叶わなかったのだ。むしろ受かる保証すらなかった。
1週間ほど悩んだろうか、しかし募集期間も限られていて2~3年しか求人しない、あまりにもレアな職種。本当に何もかもが完璧なタイミングであった。迷いを振り切った私は、選考書類にありったけの熱量を込めて自分がその当時出せるだけのパフォーマンスを全力で出し切り、渾身のエントリーシートと履歴書と提出作文を書き上げるに至った(もちろん、今見返してみると未熟なところは多々ある)
その結果、以前とは違い書類選考通過のお知らせがきた!その後に面接を受けることになった。場所はさいたま新都心駅の高層ビルだった。人生を振り返ってみても、しょぼい民間で働いていた私が、超巨大な政府機関の面接試験を受けるとなると、それはもうとんでもなく緊張した。聞かれた内容で覚えているのは「〇〇さんより遥に年配の上司がいるがコミュニケーションは大丈夫か」、「車の運転は、、英語は話せるか、、」などだったろうか。あとはあまり覚えていない。私はいつも面接時に意識することは、質問者に対して一問一答を誠実に丁寧に応答するという一点に全力で集中するのだ。そうすることで、ある一定の信頼関係を面接中に築くことができる。結局のところ面接などは時間の都合上、多くの事を知れないのだし、いかに誠実そうな人物であると認識させることができるか、できないかが成功のカギなんだろうと、これまでの就活の成功体験からはそう考えている。
面接の結果は、その日のうちに電話で「採用をしたい」との申し出があり、私も喜び快諾をした。
受かった次なる職は単なる踏み台で、本当に掴みたい夢は更に上にある。
そんな気構えと、民間から公務の世界への緊張と、これからの自分の頑張り次第で未来が左右するという自覚で、とても刺激のある2018年の上半期であった。