夢とは何だ?~それは共生関係に他ならない~

           ”夢”

ずっと見てきた、追い求めてきた、ずっとそばにあった

そんな人生であったと思う。

 

 私が物心ついた時から、なんとなく”夢”とは共生関係にあったように思う。

これまでの人生を振り返って夢を見てみると、夢の想念や性質とやらは不変ではなく、年齢、立場、これまで出会った影響に左右されて想念の質(熱意)や量(行動量)が変動していっているのが分る。

 例えば、小学生の頃に卒業アルバムを制作したが、その時に将来の夢などを書かされた、その時は書き記した夢は「漫画家」だった。当時、月一回発売されるコロコロコミックを読みふける漫画少年であった。読むだけじゃ飽き足らず自分でも絵を描いて(下手くそだが)コマ割りやストーリー構成を考えて図書館の自習室に行って(周りは大人だらけで勉強している中)漫画を描きに行くような子供だったのだ。また、ベネッセの通信学習である、赤ペン先生で付属のテスト問題を解いて提出する度にポイントを貰える仕組みがあり、そのポイント分によって商品がもらえるものがあって、そこには『漫画家道具セット』なるものがあって、漫画家に必要な筆や道具が一式揃った商品が掲載されていた。そこで兄貴にも協力してもらい、よく分らないままにテスト問題を解きまくって赤ペン先生に提出しまくり、ポイントを荒稼ぎして漫画家道具セットを手に入れた記憶がある、今思えば昔から【自分の決めた目標=夢】に対していつも真っすぐ純粋に突き進むタイプだったんだろう。

 

 中学時代に入ると、仲のいい男女6人ぐらいでノート一冊を日替わりで書き合う、いわゆる交換日記なるものをやっていた。そこでは漫画を描いていた、自分が描いた漫画とストーリーを次の友達にバトンの様に渡してストーリーと漫画をオリジナルに仕上げてもらうものだった、ストーリーに関しては各自で考えてもらうので、どんな展開になるのかは全く予想できないのも面白かった。その交換日記のグループには女子も男子にも自分よりもはるかに絵が上手い友達がいた、仲間の絵と自分の絵を見比べて、これは到底敵わないなと、早々に自分の才能に見切りをつけた冷静な自分が顔をのぞかせ、そこから徐々に漫画家になる夢の熱量が冷めていき、最終的に諦めた。

 中学2年頃から、自然環境問題に関心が急に湧き出す。きっかけはある日、学校から帰ってきて夕方のニュースを見ていたら、南米アマゾンの奥地の森林火災が報道されていて、雷に打たれたかのようなショックを感じ、自然を守る仕事に就きたいと思ったのが始まりだった。もちろん、自然には昔から親しみがあり、小学生の低学年から地元のキャンプ団体に所属していて、夏休みなどの長期休みには山や川遊びをするような子供だった。そんな自然の恩恵を当たり前に享受していた自分が、ある日、人の手によって自然は破壊されている衝撃の事情を知った時に、意識改革が起きるのも不自然ではないだろう。

 元々、そういう気質はあった、それを象徴するエピソードがある。ある日学校から帰宅している最中に、友人が橋の上でペットボトル飲料を飲み干し、その後はゴミだからといって川に投げ捨てたことあった。その瞬間、脳内で物凄い嫌悪感を感じたのだ。「自然を汚すな!」と憤りを感じた。しかしそのように感じ取ったのは自分一人だけで、他の友人は笑っていた。他の人と自然に対する価値観が違うんだと明確に悟った瞬間であった。

 

 高校時代は、生物のテストは高得点であった、成績表も生物に関しては最高評価のAしか取っていないと思う。そんな自分は、いずれ環境問題を解決するような自然に携わる仕事をしてみたいなと沸々と込み上げる気持ちを感じていた。進路選択の時が来たときは迷うことなく、第一志望に自然保全が学べる大学であった東京〇業大学に進む事に決め、高3の夏休みはほぼ全て日程を塾に通い詰めた、それこそ朝から晩まで。

 元々、学力があまりないところからスタートしたので苦戦した。しかし塾講師の方がけっこう優秀で着いて行きたいと思えたのは大きかったように思う。3人いたのだが、モンゴル人留学生で東工大生(数理系の国立大学では東大に次いで難関)の講師がいて面白かった、彼の頭の良さは半端じゃなかった、モンゴルに居たころにYoutubeで日本語版の「1リットルの涙」のドラマを見て日本語を覚えたとか。休み時間にはYoutubeで何やら難しい物理の映像を見て夢中になっていたとか。将来はエンジニアになってGoogleに入社したいとか言ってたけど当たり前に叶えていそうな人だった。もう一人は医学部生で数回の浪人経験者で苦労人であった、そのため自分が勉強で躓いても懇切丁寧に指導をしてくれて、ユーモアセンスも抜群の面白い講師だった。最後の一人は現役で慶應に入った講師で、古文を暗記のためのオリジナルのソングを授業中に歌って聞かせてくれたり、優しくイケメンで、当時の自分はかなり眩しく魅力的に映ったのだった。そんな最強講師陣に支えられて何とか現役で第一志望の大学へ行けたのだった。

 

 大学時代に入ると、自分が興味を持つ専門性を持った実学主義が徹底されている環境に驚きと興奮があり、キャンパスライフを謳歌した。友人にも恵まれたし、人並みに恋愛もした。

 そして夢も大きく膨れ上がっていた。自然を守る職種を選択する上で、超一級の自然がある環境で働いてみたい、それはどこだろう、調べているうちにどうやら国内で最も自然が豊かなのは世界自然遺産だと知った(知床、白神山地屋久島)素晴らしい自然環境がそこにあった、ではどこの所属組織が管理運営しているのか。それは環境省であった。なるほど、では環境省の職員になれば一等級の大自然の中で環境問題を解決できる仕事ができるのか。夢は具体化していった。

 元々、公務員などの肩書や安定した生活など、どうでもよかった。それに家族、親族には誰一人として公務員はいなかった。だけど、自然系職種は数が少なくて、自分の理想を突き詰めると環境省のレンジャーが最も理想の職種だと感じたのだ。挑戦できる年齢は22歳から30歳まで。まだ20歳だった自分には、今はチャレンジできないけど、今後数年後に、目指すべき夢が明確になっていた。

 

 ざっと、小学生から大学生まで夢をテーマに振り返ってみたが、自分の夢を一貫していたのは、中学生頃からだった。そのため進路選択時に悩んでいる友人に共感が出来なかった。「友人がその大学に行くから自分も行く」そんな発想を持ち合わせている人が大嫌いだった。「自分の人生なのだから自分で決めろよ」と。

 自分の中ではここまで既述したように夢と自分の在り方の共生関係が密接で、様々な人生の選択の瞬間に躊躇が無いのだ。それは自分の想いをブラしたくないのではなく、自分の性格上、したいこと以外の仕事をやっても生産性も低いだろうし、長続きもしないだろうとわかってるからだ。それならいっそのこと、思いっきり自分の目指したい道を歩むしかない。他人から見ればそれは、高尚な意思を思わせるだろうが、実はそこには、選択したのは自分なのだから責任と覚悟を持ち合わせて生きてる意識がある。だからその道の一流を目指したい、やるなら徹底的にやりきる、それが自ら選択した者の流儀ではないか。

 

 さて、大学を卒業してから実は、紆余曲折があった。それはいつか、また別の記事で記すことにする。今この記事を書いている私は、来月で29歳になる。つまり、20代も残りわずか1年と少しである。

 

つい数日前10月13日 ついに夢が叶うことができたのだ。

 

次の記事でその詳細について書き記したい。