専門学校時代から卒業後の進路

専門学校に入る前のフリーター時代に付き合っていた彼女がいた。

その女の子は、自分より3つ年上の社会人女性だった。専門学校卒で20歳から働いていることから社会人経験は3年。今思えば、駆け出しぐらいの年齢なのだが、当時の自分から見た時に随分と大人に映ったものだ。

 

そんな、彼女とたわいのない会話から夢について語ったことがある。

自分が当時目指していたのは「いずれは国立公園の管理人になりたい」という夢だった。

そのことについて彼女は「早く叶えてほしい」と言ったのだ。現状に焦りと不安が滲んでいたのだろうと思う。冷静に過去の自分を振り返ってみても、非正規雇用者のフリータ、それも日雇い労働者のような不安定要素満載の男だった。彼女の不安は言わずもがなである。

結果的には、この当時無謀にも大言壮語を吐く男が、数年後に自分の夢を叶えることができたのだが、当時の自分には説得力の欠片も無かったように思う。

 

 

さて、話を専門学校時代に移す。

学校入学時の年齢は21歳。世間的には大学4年生だろうか。私は短大しか出ていないので、残りの2年間の学生生活を求めていた。残りの2年間は実学を多く経験できるカリキュラムとその学校は過去に何人ものレ〇ジャ〇を輩出の実績を持つ専門学校だったので理想の環境であった。

卒業と同時に夢を叶える事が目標であった。

しかし、入ってみて思ったのは公〇員〇験講座がまったく充実していおらず、目指す人もほぼいない現状だった。自分としてはライバルは居ないに越したことはないのだが、拍子抜けをしたせいか、モチベーションが低いままだった。

結果論的には、夢は叶えられることもなく卒業を迎えた。もちろん、在学時の22歳に試験を受けたが一次試験の壁を越えられるはずもなく撃沈。

最後の悪あがきで非常勤の国立公園の補佐の仕事で阿蘇あたりの募集があって申し込むが書類選考すら通らなかった。見通しの甘さと中途半端な気持ちが自ら夢を遠ざけた。

 

卒業後は、友達から誘われたベンチャー企業の営業会社に就職。しかし、大人になりきれない若者たちが作ったような企業形態、福利厚生なんて無し、見掛け倒しの高月給(社会保険料無し)で釣った世間知らずの若者が集まる労働環境はやりがい搾取の温床で実情はブラック企業だった。自分は、電話営業の部署に配属したのだが、部署に入る前までの面接試験なるものがあり、役員に自己PRをしないと所属できない謎ルールが存在した。

私はこの頃、完全に起業家という職種に憧れていた。松田〇太さんの本を愛読し自分も脱サラして企業を起こすぞと、そのためには営業会社で高額な利益を上げて貯蓄し、ベンチャー企業なので上場を目指すために働き、ストックオプションを取り高額報酬を貰う算段を考えていた。今でいえばその方向性は一定の正しさはあるものの、労働を差し出す環境を間違えていた。今も、その営業会社は存在するが、あれから5、6年経つも上場などする気配は皆無で、友人からの誘い文句の「あと1,2年後に上場するんだ」という言葉はただのホラ吹きの詐欺であったのだ。当初は若干怪しいなと思いつつも、高校生ぶりに会った友人から輝かしい話を持ち込まれ、自分としても試験を失敗して半ば夢諦め状態であったため安易に方向性を誤ってしまったのだ。

 実際に働いてみると、一部上司からの暴言と時には暴力まがいなこともあったし、同僚の先輩(年齢は年下)のやつからは嫌がらせの様な言動があった。直属の上司はとても優秀で尊敬できることもあったが、コールセンターの営業活動で自分が感じたのは、無作為抽出された番号で突然見も知らずの相手に電話をかけて、欲しくもない商品を押し売る行為であり、相手の都合を考えず時間も精神もすり減らし、迷惑極まりない営業方法は社会悪なのではとも思った。そして、営業の会社ならどこでもそうだろうが、常時同期と営業活動を競い合いさせられ、月曜から金曜まで成績に一喜一憂を繰り返す。営業会社に肌が合わないことを悟ってからは早期に辞める事を決意した。こんな、仕事やってられないというのが正直な感想だった。

そして、私はある日の会議の場で、辞表を叩きつけて逃げるように会社を退職。その後は、別の興味のあるリラクゼーションの就職活動に当たり、2社から内定を貰う事になった。今振り返ってみても、とても賢明な判断だと思う。あのまま、数年間もあのような会社にこき使われていたら、廃人同様になっていたに違いないのだから。