夢を叶えるまでに費やした9年間

2020年10月13日

私の運命が変わった日だ。

それどころか、人生のあらゆる問題から解放された日でもある。

そして今日は2020年11月13日、明日は私の誕生日である。28歳という期間をひたすら勉強だけに打ち込んできた、遊びも振り返ってみても、殆ど記憶にない。華の20代のうち28歳だけは修行増の如く勉強に勤しんだ。それは夢を叶えるため、そして自分の人生のあらゆる問題解決のために、しなくてはならない事でもあった。そもそも、これまでの日記の連投の訳は、明日の誕生日で29歳を迎える前までに、今年の一年の振り返りと20代の大部分を振り返りたいと思い筆を執っていたのだ。

 

私の20代は正直な気持ち、光り輝くものではなく闇や黒い部分が多いと思う。

なぜならば、20代の始まりから「自分の夢という光り輝く灯」を逃しに逃し続けて、長いトンネルや暗い森の中を彷徨い続けていたからだ。それは人から見ても自分から見ても輝いた道には見えないだろう、暗く、鬱屈した林の道のように凸凹で直線な道など皆無で、いつも曲がり角から先の景色なんて見えたことはなかった。急に落とし穴にハマり、抜け出すことに苦労したり、崖から転がり落ちたこともある。それでも遠く輝く「夢という灯」を頼りに一歩一歩近づく努力だけはしたつもりだ。

 

20代の大部分20歳~28歳までの9年間は間もなく数時間で終わる。

それは、第一章に過ぎない。

29歳こそが本当に幸せな夢のストーリーがある、第二章が29歳から始まる。

20代最後の年にして、ようやく私の夢が叶えられたのだ。今までの焦燥感や魘(うな)されて起きることや、夜中にどうしようもない恐怖感に苛まれることももう無いだろう。断言はできないが、今までの様な状態からは抜け出せるから劇的に改善していくことだろう。なぜならば、私の夢がかなった時点で、将来への不安からは解放されるからだ。【金銭面、社会的地位、将来性、信頼性、仕事のやりがい】この5つのどれもが過去の20歳~28歳までは持てなかった。それらがない時の精神的なストレスは、味わったことのない者にはわかるまい。地獄の苦しみと、日々どのような時でも自己に自信を持つことが不可能なのだ。これを苦しみと言わず何と言おうか、人と話してるとき、映画を見ているとき、食事しているとき、世の中で活躍している人を目の当たりした時、ありとあらゆるシチュエーションで私は、自己に足りない上記の物を欲求にかられる。しかしどれも簡単に手に入るものではないので長期間の労力を惜しまず連続的になし得ないと手に入らない、しかも絶対に手に入る保証など何処にもない。このような苦しみを8年間味わい続けたせいで、私はある種の精神症をきたしているのかもしれない、その精神症は、5つの欲求を一つでも満たせられていないと感じた瞬間に猛烈に劣等感を感じる神経症である。自分でも面倒な性格だとつくづく実感するのだが、自己能力が劣ると判断してしまい卑下してしまいがちであるのだ。この8年間に何百、何千、何万と5つの欲求が欲しいと願ったかは計り知れない。そんな自分の性格上、どうしても夢を叶えなければ幸せは訪れなかったのだ。私の幸せは5つの欲求を満たしたうえで成り立つ相当難易度の高い幸福論者なのだ。やれやれ。

 

さて、その夢を叶えるために必要であった中間ステップが環〇〇のエーアールの非常勤職であった。前回の記事では、二人の非常勤により精神衛生が乱されたこともあるが、実はメリットの方が多かったのだ、そこで以下の通りに記してみた。

 

【民間から公務へ仕事が変わったことのメリット】

・仕事のノルマが極端に少ない。

民間では時給のように、その日、その時間に生産性を上げて利益を生み出さないといけないが、公務はそうじゃない。利益にならないことが仕事なので急かされることがあまりない。もちろん期限付きの仕事はあるが利益云々ではないので、民間程激しい仕事は無かった。

 

・仕事の配分は自分で決められる

マネジメントをされているのが当たり前だった民間では、上司に口酸っぱくやいのやいの言われることはほぼない。営業会社であれば報告と同時にPDCAサイクルを説明し、時に厳しく指導されることはザラである。しかし公務は人を育てようなどという気概を持つ人はあまり存在しない、なぜか非常勤同士だけが先輩が後輩に指導買って出ている人はいたが、そんなのは極わずかで、しょせん契約社員は入れ替わりでいなくなる存在なのでいちいちマネジメントなんてしないのだ。面倒だし、下手したら恨まれ役になるから。

 

・休日が多いこと、残業の少なさ、絶対にボーナスがあること

これは福利厚生の充実さが最高であり、公務員であれば非常勤でも享受できるところにある。これは民間でサービス業に従事していた身分であった私は、休みなどは長くて二日しか取れなかったため感激したものである。年間で15日(常勤職員は20日)もの有給が支給されるので、1ヶ月のどこかで有給は必ず取れる環境でもあった。他にも公務員ならではの福利厚生はまだまだあるのだが割愛をする。

 

以上の様に、理想非常勤に悩まされた経験を語ったが、もちろん良い事の方が多かったと言えるだろう、おかげで勉強に割く時間もわりかしあるので、自己管理ができる人は空いた可処分時間を用いて自分の夢に挑戦することも容易である。

そもそも、私はこの理想とするワークライフバランスでこそ、ようやく夢がかなえられると思っていた。雇用期間中に勉強をして、そのまま常勤の公務員へ転職をする、これこそが私の理想のステップアップであったからだ。

初めての、一人暮らしは1ヶ月程はかなり寂しいなと感じたが、元々家族とはそこまで話すことはなかったので、一人の時間をいつの間に楽しめるようにもなった。

そして、私は幸いなことに料理が好きであった、得意とまでは言えないがそれなりに自分で食べて美味しいと感じられる料理を作れるのだ。そして掃除も別に嫌いではない。一人暮らしをする上で特段困ることは無いのだ。

 

初めて勤務し始めてからの4月から6月にかけては仕事終わりの18時には家に帰りつくので、そこから家事をこなしつつ、空いた時間で公務員試験勉強に打ち込んだ。

しかし、6月の中頃に事件が起きる、自動車の物損事故だ。そのことがきっかけで上司に散々迷惑をかけ、同じ立場の非常勤に舐められマウント取られることとなる、大変に痛恨の極みの一件であった、同じ年の下半期にも事務所内で車の駐車中に後方をぶつけてしまうトラブルを起こしてしまった。そのことで、私の事務所のヒエラルキーは最下層に転落してしまい同期を調子づかせることとなるのだった。そのトラブルは長きに尾を引いて一時期は帰宅後に勉強所ではなく相手側に謝罪しにいったり、自動車運転所に自ら通い直すなどプライベートな時間も削る羽目となり、4月~6月にかけて勉強していた習慣も一気に無と化した。そして、人生3度目の試験もあえなく失敗となってしまった。

 

また、以前から憧れていたRの働きぶりを間近で見ていると許認可申請が多いのだ、自然を守ることではあるのだが、法に則り遵守させる指導が仕事の9割を占めていて、私が思い描いていたRの姿とは余りにも違ったので愕然とした。地球温暖化防止のための仕事や環境破壊を止めるための政策などに携わることなど、地方事務所では皆無で、淡々と許認可事業をやり続けるのだ。つまらない仕事であるし、守ってる実感も湧きにくい、正直こんなに魅力が無いのかとガッカリしたのを覚えている。このような経緯があり、仕事後の可処分時間を勉強に充ててRになろうという気力が湧きずらくなっていた。勉強して環〇〇に入ってRになったとして、こんな自然とかけ離れた事務仕事に忙殺されるのはくだらないとさえ思った。こうした心境の変化は私の夢の形を変えてしまった。

 

では、なぜ私がそれでもなお公務員を目指したのかを次の記事で記す。

理想郷への入り口と中間での経験

ラクゼーションの会社(ヘルスケア商社)を退社した。

願ってもないチャンスが、あちらから飛び込んできたからだ。

 

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↑ 前回の記事で書いた通り、私はチャンスを逃すまいと全身全霊を込めてエントリーシートを書いて提出し、面接試験をクリアした。

 

4月から憧れに憧れた、理想とする職種に一歩、いや100歩程近づけた感覚であった。非常勤と言えど、本物の「環〇〇」の組織で働けるのだ、そして周りには憧れのRがいる。興奮していたと思う。

退職する前に同僚に打ち明けるのだが、素直に喜んでくれた人もいたが、中には嫉妬心が見え隠れするような言動も聞こえてきた。ある男性アルバイトからは「〇〇さんは勉強が出来てすごいですね、私や〇〇ちゃんはそういったことはできる能力がないんだ」と言った。自己否定と卑下をしていた。彼は当時、28歳だったろうか。二つ年下のしかも社員が更に安定の地位の公務員へ転職をする。それは、もうとてつもない焦りと劣等感を抱いたことは想像に難くない。自分が逆の立場だったら、嫉妬心で悶絶する。

でも、真実の所、今回の就活はあくまで非常勤職員への就活に過ぎない、求められるレベルは本物の公務員と比べるとめちゃくちゃ楽なものだ。そういった本当の事は打ち明けていないものだから誤解されていた。というか、誤解されたいという願望であったのが正直な気持ちで、曲がりにも社員から任期雇用の職へ転職するということは口が裂けても言いたくなかったし、公務員へ転職が決まったのか!とすごいと思われたいし、そうした時の相手の反応が優越感があったのだ、私はつくづくしょうもないプライドの持ち主である。

 

さて、退職後、あわてて引っ越しの準備を済ませた、初めての家探し、初めて不動産屋に行き何軒も車で周ってもらった。超幸いなことに、新築のアパートが3月にできて未契約であったので有り難く入居を決めた。まぁ仕事開始の2日前という超ギリギリで、初出勤前はエアーマットと寝袋で緊張もあって全く寝付けなかったのを昨日のことのように思い出す。

 

仕事は民間から公務になったことで、いままでの常識がまるで通用しない、まるで別世界に来たのではと思うほどの混乱だった。起案?決裁?出勤簿に判子?年休の前借り?早朝の新聞切り抜き?役所仕事どころか私はまともにデスクワークをした経験が無かったことも大きかった。営業会社では毎日営業の電話をかけるだけだし、リラクゼーションはマネジメント業務と施術とビラ配りで基本は立って仕事をして、PCをするのは業務報告とブログ更新ぐらいなものだ。Word、Excelパワポはほぼ学校で触ったことあるぐらいで、今でも勉強中である。

まぁでも、公務の仕事は2カ月ぐらいで適応しはじめた。私は正直に言うと民間の仕事に比べて公務はめちゃくちゃ楽だと思った。はっきり言って天国と地獄の差ぐらいあるのではないか、今まで体を酷使や精神を負荷、忙殺されるような仕事を経験してきた、営業でノルマを課せられて、競わされてきた。そんな環境と見比べてみると明らかに公務員は楽である(もちろん全般ではない)圧倒的な安定の地位にあるため、競争心とやらでギスギスしていないし、民間とは違う時間の流れを持っていると思う。

 

そういった環境では、必ず甘い汁を吸っている害人がいるものだ。その職場にもいた、自称でお局と自覚していた40代の非常勤の補佐員であった。最初こそは、面倒見の良いオバちゃんだったのだが、ある日を境にして態度が急変。無視、陰口、職場の人に聞こえるように嫌味と無能呼ばわりと陰湿ないじめを横行しはじめたのだ。イイ年した40代が20代の新人をいびらないと気が済まないのだから、冷静にやばい奴なのだが、周りの人は怖がって、あるいは面倒なので気を遣っていたため、やりたい放題、言いたい放題であった。そのお局の旦那が電気整備をしていたのだが、事務所の仕事を受注するように根回しするようなこともあった。それは問題発覚したら、職権乱用なのではないか?また、事務所にプライベートな私物を宅配で送ったり、事務所からプライベートな物を発送したりと、公私混同のやりたい放題好き放題やっていた。ある日そのお局が言っていた「私はこの事務所にこれからもずっといるからね」と。たしかに勤続年数は非常勤なのに9年目を迎えていた、しかしその発言とは無関係に人事の働きによりついに任期満了のため更新ができないことが決まった。そのことを知ってざまぁみろと思ったし、やはり長く居座ると自ら成長することなく下の者を叩く老害に成り果てるのだと思った。組織の健全化のために、あのお局が辞めたことは本当に良いことである。

 

また、もう一人どうしようもない同期がいた。先程言ったように競争環境に無い公務の世界で、アホ丸出しに競争心むき出しで煽ってくるような奴であった。彼は専門問卒で私が大学卒であったから嫉妬をしていたのだ。それに、隙あらば発言の揚げ足取りに精を出し、己が優れているとハッタリをかまし、しょーもないマウントを取り、聞かれてもないどうでもよい自慢話を甲高い声でベラベラと話をして周囲をドン引きさせ、空気も読めない痛い奴であった。正直こんなに腹立つ相手に人生で初めて会った。憤りも多々あるがあまりにも滑稽で笑えてさえもくる、彼の言動に驚きっぱなしで開いた口が塞がらない。聞くところによると、前職では非常勤で働き、頑張ったのに正社員として認められず、後から入った新人に先に正社員になられて。それが気に食わなくて辞めたのだと。完全にヤバイ奴だから正社員にしたくないんだろうと傍から聞いてもわかることなのだが、そのことがコンプレックスで環〇〇にきて、同期の私に散々マウントを取ってくるのだった。最初はその都度、私も反撃に出た、叱責し詰めたこともある。嘲笑うごとく、諭すように対応した。だが彼は天然のバカなのか、治らない。性格以前にそういう病気なのだろうと思う。けっきょく彼は1年半で次の職を決めて転職していった。彼がいなくなった職場は本当に心地よかったことを思い出す。彼とは金輪際関わることが無いことは私にとって良き人生である。

 

以上の様に、理想としていた職に就いて。民間から公務の違いなどがあったり、性格が醜悪を極めた二人の非常勤に悩まされた経験を語ったが、もちろん良い事の方が多かった。

それについては、次の記事で書くことにする。

そして、私はこの理想とする職の中であることに気づき、少し方向転換をすることにした。それについても次回書こうと思う。それが28歳で叶えた夢につながるのだ。

崖から落ちたら踏み台を見つけて登るしかない

怪我は大きなものであった。針金を入れて骨が安定するまで固定する。

その間には可動域が狭まり、当然手首には異物感が残り気になる状態であった。

結局は1年後に固定器具の針金を抽出するために再手術をすることになるのだった。

 

仕事には、なんとか復帰することができた、それには手首の負荷が軽い施術内容の店に異動することができたからだ。そこの店では以前勤めていた職場の人間関係とは比べものにならないくらい良好な人間関係が築けたし、同僚に恋心を抱くなどちょっとした青春も味わった。その当時は別の彼女がいたので最終的には交際までは進展しなかったのだが。

 

その新しい店はストレッチ系の店であった。当初は社員が店長を含めて私と二人しかいなかった。その店長も子育てを理由に店長を辞めて、私が代わりに店長となる引継ぎが行われた。店長としてのキャリアを経験したのは26歳だ。

 

そもそも、店長になるためには研修で合格しなければならなかった。座学を受けて、講師と受験者の前でホワイトボードを用いながら15分間程のプレゼンを行う。

かく言う私は、人前に立って話すのが非常に苦手であった。短大時代に同じようにプレゼンの機会があり大失態を犯してからはすっかり恐怖症になってしまったのだ。

しかし、社会人となり面前に出て話す機会が、その会社では多々あり慣れる他にどうしようもない状況ではあったので、15分プレゼンに関しては徹底して努力をした。

座学は通常の3倍以上出席を重ね、合格者と不合格者のプレゼンを録音し、分析し、ノートにまとめ、録音をひたすら聞き繰り返すことをした。そして自らも自分でプレゼンを行い録音をした。また仕事終わりに同僚に協力を頼みプレゼンを聞いてもらうなども行い、研修の日を迎えた。結果的にはその日は5人発表を行ったのだが、5人中で最も点数が高く評価されたのだった!努力が報われる瞬間はとても気持ちがいいし万能感を味わえるので、これからもこの経験を糧に、努力を惜しまず自分の苦手なことにも挑戦していきたいと思う。

 

さて話は戻すが。

年上の先輩アルバイトは30代~40代もいたので気にしながらのマネジメント業務は大変難しかった。けっきょく最初担当した店は店舗契約期間の延長が通算利益の水準に達しないとの本部の判断で店を畳み、次には新宿で店長をすることになった。

年が明けて1月~2月までの期間で店長をしていた。その間の2月頃になんと、前々からずっと求人を求めていた環〇〇のARのしかも〇根地域での募集があったのだ。

 

正直最初は今は会社員として自分の意思次第だがずっと続けていけるし、求人内容はしょせんは非正規雇用の任期雇用なのでいずれかはまた転職しないといけないということもあり迷ってはいた。

しかし、今私がいる環境は本当に望んだものではない、そして今後何十年も続けていく自信がなかった、それは給与面でも、休みの少なさでも、将来の不安があったから。

そして、このARの職に就けることができれば、ステップアップとして試験に有利に働かせることができた。そもそも、以前はARの面接試験すら受けられず書類選考通過すら叶わなかったのだ。むしろ受かる保証すらなかった。

 

1週間ほど悩んだろうか、しかし募集期間も限られていて2~3年しか求人しない、あまりにもレアな職種。本当に何もかもが完璧なタイミングであった。迷いを振り切った私は、選考書類にありったけの熱量を込めて自分がその当時出せるだけのパフォーマンスを全力で出し切り、渾身のエントリーシートと履歴書と提出作文を書き上げるに至った(もちろん、今見返してみると未熟なところは多々ある)

その結果、以前とは違い書類選考通過のお知らせがきた!その後に面接を受けることになった。場所はさいたま新都心駅の高層ビルだった。人生を振り返ってみても、しょぼい民間で働いていた私が、超巨大な政府機関の面接試験を受けるとなると、それはもうとんでもなく緊張した。聞かれた内容で覚えているのは「〇〇さんより遥に年配の上司がいるがコミュニケーションは大丈夫か」、「車の運転は、、英語は話せるか、、」などだったろうか。あとはあまり覚えていない。私はいつも面接時に意識することは、質問者に対して一問一答を誠実に丁寧に応答するという一点に全力で集中するのだ。そうすることで、ある一定の信頼関係を面接中に築くことができる。結局のところ面接などは時間の都合上、多くの事を知れないのだし、いかに誠実そうな人物であると認識させることができるか、できないかが成功のカギなんだろうと、これまでの就活の成功体験からはそう考えている。

面接の結果は、その日のうちに電話で「採用をしたい」との申し出があり、私も喜び快諾をした。

 

受かった次なる職は単なる踏み台で、本当に掴みたい夢は更に上にある。

そんな気構えと、民間から公務の世界への緊張と、これからの自分の頑張り次第で未来が左右するという自覚で、とても刺激のある2018年の上半期であった。

 

逆転人生

コールセンターの営業会社から退職した自分は、リラクゼーション業界に就活をして2社の内定を貰った。

なぜ、リラクゼーションなのか。

それは単純に都会で働くうえで自然のようなリラックスした職場で働きたいという、営業会社からのストレスの反動の様なものだと思う。

もちろん、大義名分を抱えてはいた。

「都会で働いている人のストレスをリラクゼーションによって緩和させたい」 という大義名分だ。

私はこれまで、森林セラピーなど森林浴から得られる科学的な効能の”フィトンチッド”がストレス値の上昇を抑える効果が認められることを知っていた。

ゆくゆくは、リラクゼーションと自然との融合したコンセプトで社内の中から自社ブランドでも立ち上げてやろうとさえ思っていたのだった。しかも、次に就職した会社も上場を目論むベンチャー企業であった。ようやく自分のやりたいことができるのかもしれないとも思った。相も変わらずストックオプションを買い、会社を育てて上場させてお金を得る、そして起業するのだと息巻いていたのである。

 

ところが、現実はそんなにうまいこと行かない。私は中途採用されたポジションは新卒扱いではあったが、総合職ではなく専門職。専門職はお店に入り店長業務を行うことがメインであった。総合職であれば、自社ブランドの開発や新規開拓事業にも携われる機会もあっただろうが、自分の立ち位置では理想は現実になりそうになかった。

 

それから月日は経ちその会社には2年半務めることとなった。

その間に、私は大きな怪我をすることになる。

ある日の朝いつも通りに自転車に乗り通勤していた最中のことだ、空は晴れ、すっきりとした天気で初夏の頃だった。

その頃は田〇〇布の店で一番下っ端として働いていており、全く尊敬のできない上司といつまでも自己実現のできない、うだつが上がらない毎日に嫌気がさしていた。日当たりの良くない狭くて窮屈で、屈折した先輩の元、毎日を働くのが本当にしょうもなく、居心地が悪く、それでいてとても自分が小さな存在の様に思えて居たたまれなくなっていた。小さい頃に思い描いていた大人の自分はこんなに小さな自分の訳が無いと。その当時の自分を受け入れられることも無く、肯定もできないでいた。

それでも出勤日になればいつものように自転車に乗り、最寄りの駅まで向かう。初夏の晴れた空はそれとは関係なく限りなく青く、自由の象徴のように思えた。そんな空を見ていたら「あぁ、俺はこのままでいいのだろうか。。。?俺は本当はレン〇〇ーになりたかったんじゃないのか?」とポツリ呟いた。

そう。その頃の自分は俺が思い描いていた自分の人生とはまるで反対の方向へ走っている、そんな”逆転人生”であったことに物凄い違和感と自己嫌悪があった。

 

その日、通常通り仕事を終えて、電車に乗り駅に降りて自転車に乗って帰っていた。いつもの自分とは違った点でいえば、大音量でロックを聴いて無茶苦茶な荒い運転をしていたことだ。運転を誤った自分はコンクリートに叩きつけられ、一番最初に衝撃を受けた左手首を骨折してしまう。

日曜日の夜の救急病院に親父とタクシーで向かい、診断されたのは全治半年で手術が必要とのことだった。当時の自分の職業は施術を行うものだったので手首が使えないというのは事実上の引退のようなものだった。

半年の期間は入院、手術をしてリハビリをして過ごす。その間にある膨大な時間の最初に過ごす時間に、本当に自分がやりたかった仕事は自然の中で働くことであると意識し始め、それを実現するべき時が今なのだと直感した。

 

そこからは、遠くに光り輝く夢を追いかけるために、180度の方向転換の舵取りを行った。貯金を切り崩し、受験に必要な参考書に問題集を買いあさった。

怪我した当時は25歳。もうそろそろ夢を叶えられる期限は5年間しか残っていない、本気でやらなければ夢行きのゴールデンシップへの搭乗は乗り遅れてしまい、もうやり直せることは無くなってしまう、一生の後悔を残してしまうと思った。

専門学校時代から卒業後の進路

専門学校に入る前のフリーター時代に付き合っていた彼女がいた。

その女の子は、自分より3つ年上の社会人女性だった。専門学校卒で20歳から働いていることから社会人経験は3年。今思えば、駆け出しぐらいの年齢なのだが、当時の自分から見た時に随分と大人に映ったものだ。

 

そんな、彼女とたわいのない会話から夢について語ったことがある。

自分が当時目指していたのは「いずれは国立公園の管理人になりたい」という夢だった。

そのことについて彼女は「早く叶えてほしい」と言ったのだ。現状に焦りと不安が滲んでいたのだろうと思う。冷静に過去の自分を振り返ってみても、非正規雇用者のフリータ、それも日雇い労働者のような不安定要素満載の男だった。彼女の不安は言わずもがなである。

結果的には、この当時無謀にも大言壮語を吐く男が、数年後に自分の夢を叶えることができたのだが、当時の自分には説得力の欠片も無かったように思う。

 

 

さて、話を専門学校時代に移す。

学校入学時の年齢は21歳。世間的には大学4年生だろうか。私は短大しか出ていないので、残りの2年間の学生生活を求めていた。残りの2年間は実学を多く経験できるカリキュラムとその学校は過去に何人ものレ〇ジャ〇を輩出の実績を持つ専門学校だったので理想の環境であった。

卒業と同時に夢を叶える事が目標であった。

しかし、入ってみて思ったのは公〇員〇験講座がまったく充実していおらず、目指す人もほぼいない現状だった。自分としてはライバルは居ないに越したことはないのだが、拍子抜けをしたせいか、モチベーションが低いままだった。

結果論的には、夢は叶えられることもなく卒業を迎えた。もちろん、在学時の22歳に試験を受けたが一次試験の壁を越えられるはずもなく撃沈。

最後の悪あがきで非常勤の国立公園の補佐の仕事で阿蘇あたりの募集があって申し込むが書類選考すら通らなかった。見通しの甘さと中途半端な気持ちが自ら夢を遠ざけた。

 

卒業後は、友達から誘われたベンチャー企業の営業会社に就職。しかし、大人になりきれない若者たちが作ったような企業形態、福利厚生なんて無し、見掛け倒しの高月給(社会保険料無し)で釣った世間知らずの若者が集まる労働環境はやりがい搾取の温床で実情はブラック企業だった。自分は、電話営業の部署に配属したのだが、部署に入る前までの面接試験なるものがあり、役員に自己PRをしないと所属できない謎ルールが存在した。

私はこの頃、完全に起業家という職種に憧れていた。松田〇太さんの本を愛読し自分も脱サラして企業を起こすぞと、そのためには営業会社で高額な利益を上げて貯蓄し、ベンチャー企業なので上場を目指すために働き、ストックオプションを取り高額報酬を貰う算段を考えていた。今でいえばその方向性は一定の正しさはあるものの、労働を差し出す環境を間違えていた。今も、その営業会社は存在するが、あれから5、6年経つも上場などする気配は皆無で、友人からの誘い文句の「あと1,2年後に上場するんだ」という言葉はただのホラ吹きの詐欺であったのだ。当初は若干怪しいなと思いつつも、高校生ぶりに会った友人から輝かしい話を持ち込まれ、自分としても試験を失敗して半ば夢諦め状態であったため安易に方向性を誤ってしまったのだ。

 実際に働いてみると、一部上司からの暴言と時には暴力まがいなこともあったし、同僚の先輩(年齢は年下)のやつからは嫌がらせの様な言動があった。直属の上司はとても優秀で尊敬できることもあったが、コールセンターの営業活動で自分が感じたのは、無作為抽出された番号で突然見も知らずの相手に電話をかけて、欲しくもない商品を押し売る行為であり、相手の都合を考えず時間も精神もすり減らし、迷惑極まりない営業方法は社会悪なのではとも思った。そして、営業の会社ならどこでもそうだろうが、常時同期と営業活動を競い合いさせられ、月曜から金曜まで成績に一喜一憂を繰り返す。営業会社に肌が合わないことを悟ってからは早期に辞める事を決意した。こんな、仕事やってられないというのが正直な感想だった。

そして、私はある日の会議の場で、辞表を叩きつけて逃げるように会社を退職。その後は、別の興味のあるリラクゼーションの就職活動に当たり、2社から内定を貰う事になった。今振り返ってみても、とても賢明な判断だと思う。あのまま、数年間もあのような会社にこき使われていたら、廃人同様になっていたに違いないのだから。

 

 

『こんなオジサンみたいになっちゃ駄目だよ』

話はずいぶん過去に立ち戻る。

私の家族は転勤族であった、そのため10代の頃は3回程引っ越ししては新しい土地で友達を作った。

そこで、物心がついた最初の転校先でのことがよく思い出すことがある。

あれは、小学生の2年生か3年生の頃だったろうか、いつのもの様に西宮のとある小学校に登校している最中だ、学校からは隣に構えるのは、大きな酒の工場で、そこの工場には門番の方がいた(警備員のような仕事だと思う)通学路を歩いている子供たちに「おはよう」など挨拶を交わしていた。その50代か60代ぐらいの警備員さんが私にも挨拶してくれていた、そこでたわいもない会話をした。

そしたら不意にその警備員の方が「今日も小学校頑張っておいで、こんなオジサンみたいになっちゃ駄目だよ。」と言ったのだ。

当時は小学生の低学年で正直何を言っているのかが理解できなかった。このオジサンの何が駄目なのだろう?そう思っていた。不思議で言っている意味が分らなかった、だからこそ自分の頭で考えて今日の今まで記憶に留めておくことができたのだろうと思う。

 

でも、今ならそのオジサンの言葉の意図を汲み取れる。

年齢から考えて50~60代で門番をする警備員ということは、おそらく非正規雇用者だったのではないだろうか。その人の人生の事は一部分の一場面しか見てない、しかも幼い自分の記憶から推測しかできないので、何も確証はないのだが、その「こんなオジサンみたいになっちゃだめだよ」という自己を卑下する言い方をするということは、今の職業に誇りを持ち合わせていないということだろう。

「小学校頑張っておいで」と言ったのも、「勉強や何か身になることを一生懸命頑張ることが将来良くするんだよ」とも解釈できるのだ。 

そのオジサンは今どうしているのだろうか、あれから19年ばかりの歳月が経とうとしている仮に60歳だとしてもう80歳近いお爺ちゃんになっているね、、。今もご存命なのだろうか。今は自分を卑下していないだろうか、今も若い世代に励ましの言葉をおくっているだろうか、そんなことをつい、今日は考えてしまった。

あの何気ない一度きりの会話からこぼれたフレーズは、私の記憶に今もとどまり続け、時より脳内で反芻するのだ。そのたびに、思うことは「今一生懸命がんばっているか?なりたい自分になれているか?」と自問自答をする。

 

私はもうすぐ29歳になるが、これまで様々な仕事を経験した。その中で感じるのは

 

職業による貴賤はない。 

 

というのは「きれいごと」だとは私は思う。

でも、人によってその仕事に対しての情熱や誇りの感じ方は違う。いわゆる一般社会の一般常識に縛られた職業観なるものに縛られて見るのは実につまらない考え方なのだろうとも頭では理解できる。

だから私は「おじさんのようになっては駄目だよ」の言葉の意味を考える時、その”駄目”の基準というのは非正規雇用ということ以前に、自分が就いている職業に情熱や誇りを持てるかどうかなのだと思う。

大事なのは”一生懸命に情熱を傾けてやれる仕事をできているか”なのだ。

そういった意味では、幸いにも私は自分が好きな環境でおそらく仕事ができるはずだ。そのためにこの28歳の大部分を将来の投資と思って懸命に勉強してきたのだから。

 

オジサンには今は会って話すことができないだろうし、きっと奇跡的に会うことがあったとしても私に放った言葉などきっと覚えていないだろう。そう思うと、人と人が出会いどんな言葉を贈り合いそれを受け止めて人生と共に生きれた”言葉”というのはとても凄みのある価値なのだと痛切に感じる今日この頃だ。自分もいつか、誰かの人生の傍にいつまでも残る想いのある”言葉”を贈りたい。そんな日とタイミングと人が現れる日が来ますように。

 

河川敷で誓った夢

前回の続きを記す

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私の夢は、一定不変ではなく、人生のシーン(立ち位置や影響)によって移り変わりを見せていくものだ。

そしてその夢という生命体は私の人生に常にすぐ傍にいる、そんな共生関係のような存在である。

 

さて、前置きは置いて、本題に入ろう。

私は、10月13日に長年の夢を叶えた。長年といえるのは、20歳から夢を持ち、その道程が凄まじく長く紆余曲折に満ちたものだからだ。生憎だが平坦な道のりで最速最短で夢まで辿り着ける方法は私には持ち合わせていなかったのだ。

 

思えば、20歳の頃だ。初めての彼女ができた。初めての交際が20歳というのは平均的に遅いかと思われるかもしれない、しかし男子高出身であったため交際面でのハンデはあった。当時はyahooの出会い系サイトに登録をして、一つ年下の他大学の女子と連絡を取り合い、月並みな恋愛をした、デートを重ねてこちらから告白して付き合った。

そして、私はあろうことか浮気をする、相手は自分よりも3歳年上の社会人女性だった。申し訳ないが年上の彼女の方が年下の彼女よりも魅力的に映ったのだ。二人の女の子と交際をするときの面倒さ、大変さを理解してなかった、同時並行で連絡を取り合いデート代も2倍、日程調整も二人の彼女のケアも大変極まりなく、それに罪悪感が日増しに増していったそのため、年下の彼女に別れを切り出した。

そこで使った口実が実は”夢”だったのだ。なんというか不純。今になって思うけど卑怯だなぁ。

その夢はいずれは「〇境〇の仕事に就いて国〇公〇の管〇人になりたいと思ってる」と伝えたのだ。この当時の学力からしたら無謀だし、唐突だ、その夢を追いかけるために時間が足りない、だから交際を辞めて、勉強に専念をしたいということを伝えた。

この夢の壮大さに彼女は理解を示してくれた。「本当に大変な目標だし、仕方がない、でも浮気とかだったら引っぱたいていた」と。騙して気分が良い訳がなかったがそれで彼女と別れた。二子玉川の河川敷で、夕暮れ時から夜にかけて。最後は稲田堤の彼女の家まで徒歩で見送った。見送った後に、もう二度と会う事が無いと悟ったのか彼女の方から「またね」ではなく「さようなら」と言われた。遥は今どこで何している?元気にやってるか?夢は無事に叶える事が出来たよ。

稲田堤から自転車で実家に戻る最中に、彼女との思い出がフラッシュバックして涙が込み上げてきた、無我夢中で自転車を走らせて泣きながら叫んだ「ぜったいに夢を叶えてやるからなぁ!!」

 

それから月日は経つ、夢がある自分は定職に就く気はさらさらなかった。二股をした年上の彼女との交際をし続けていた。しかし転機が訪れる。彼女が転勤になるとの報告を受けた。しかも海外転勤、場所はグアム。20歳の自分は無謀にも超遠距離恋愛を望んだ、頑張ってお金をためて半年に一度会いに行くからと。でも、フリーターである自分に見切りをつけたのか、やんわりと別れを切り出された。彼女を失った自分、そしてうだつが上がらないぼんやりとした日常を過ごす20歳の自分。今思えばこの時の焦りというのは半端じゃなかった。仕事は日雇いバイトに登録をしていて、ある日はベルトコンベヤーで右から左に流れてくる物を段ボールに詰めていく作業を一日中こなす工場で勤務していたこともある。周りの人たちは幸福そうな人は誰もいない、社会不適合者の烙印を押され、不遇な人生をさまよった人たちの終着点がその仕事の様に思えてきて、長い間この空気を吸って、同化してしまうのならば、将来、自分も同じような人生になってしまうんじゃないかと背筋が寒くなった。

 

そこから決心を固めて、次に進むことにした。本来であれば短大を卒業後に浪人して4年生大学に編入を考えていたが、もっと専門的に学べて就活に特化した専門学校に入学することにした。親父の理解があり無事に進路が決まった、本当に有り難かった。今思えばタイミング、タイミングで親の協力なしには今の人生はあり得ない。当時は大して感謝の念はなかったのだが、こうして人生のターニングポイントを振り返ることで親の偉大さが身に染みて分る。これからの人生は節目節目で何か親に恩返しをしなくてはならないな。そういう気持ちに自然となる。

 

さて、専門学校はいわゆる技術屋を育てる上では最高の環境だったように思う。私が将来の夢として描いていたビジョンも、卒業生の進路先にあり、憧れが一段と身近な物に感じ取れたのが何より嬉しかった。

 

 to be continued…